
1946(昭和20)年〜1950(昭和24)年
映画の製作本数増える
1949(昭和24)年度の日本映画の製作本数は、各社合計で148本。内訳は、松竹42、大映38、新東宝35、東宝5、東横10、独立プロなどの18となっている。
インフレによる製作費の高騰や組合争議などに頭を抱えながらも、これだけの作品が製作され上映されたことは、かなり立派な成績だったといえる。ただし、質的にどうかというと、外国映画に比べて相当見劣りしているのは否めない事実だった。
松竹では製作本部を強化して、東西の一元化を目指した。演出家の交流などもやったが、目立った効果は無かったようだ。
独立プロの作品は低調な年だった
一方、戦後最大といわれた組合争議で揺れに揺れた東宝だが、子会社の新東宝との間が上手く行かなくなりかけていた。東宝は配給業務を、新東宝は製作を主体とすることで何とか住み分けを図っていたが、新東宝が自主配給の動きをみせだしたので再びおかしくなって来た。
大映では、京都作品がいつも優勢だったが、長谷川一夫などの大スターとの契約更新後は、何故か少しずつ下り坂となり、代わって東京作品が、三益愛子の母物で上り調子になってきた。
独立プロの作品は低調な年だった。旗を揚げたはいいが、独自のスタジオを持っていない所が多く、売り急いで品の無い、粗悪作品や、中には製作半ばで製作費を食い潰ぶして、そのまま空中分解などという最悪のケースも有った。
群雄並び立った観のあった時代に比べると、もはや気息えんえんの有様になっていた。
どぎついエロの氾濫した前年と比較して、作品はかなり落ち着いてきたが、観客の足は、ぼちぼち遠のき始めていた。明けた1950(昭和25)年は、ひどい凋落であった。

阪東妻三郎の「王将」大入り!
時代劇で数々の名作を撮っている伊藤大輔監督が、戦後占領軍の方針で時代劇の製作が禁止され、作品に困っていた1948(昭和23)年、舞台劇を映画化した名作「王将」を誕生させる。

この作品は北条秀司原作で、新国劇で人気を博していた。これに伊藤が目を付け、自分で脚本を書き映画化した。
物語は、大阪・天王寺の崖下長屋で草履作りをし、その日暮らしをしている坂田三吉(阪東妻三郎)は、将棋が3度の飯より好きで、収入のすべてを将棋につぎ込む、大の将棋狂い。そのおかげで、家計は火の車。女房の小春(水戸光子)は苦労が絶えない。
大阪で負け知らずの三吉が、東京から来た花形棋士の関根名人(滝沢修)に負けたことから、関根に追いつき、追い越すことだけが、三吉の生涯の目標となった。そのため将棋大会の会費が必要と家財道具まで売り飛ばし、妻と娘の自殺騒ぎにまで発展する。
この事件で将棋を止める決心をする三吉
しかし、女房の小春は、落ち込んでいる三吉に、いっそうやるなら日本一の将棋差しになれと励ます。小春の助けで三吉は、それ以来、数10年間の血を吐く努力の末、ついに関根を破る。
しかし病床に伏している小春の望みも空しく、無学ゆえに名人位に相応しくないとされ、名人位には関根が付くことになる。その後、三吉は、最愛の妻・小春の訃報を聞き…。
この作品、1948(昭和23)年10月18日に公開され、戦後の貧しい中で、懸命に生きようとしている大衆から圧倒的な支持を受け、映画はヒットした。阪妻は勝負師魂の三吉を見事に演じ、併せて小春の水戸光子、娘・玉江の三条美紀の演技が高い評価を受けた。家族の絆、夫婦愛を描いて伊藤大輔監督の代表作となった。
伊藤はその後、1955(昭和30)年、新東宝で三吉役を辰巳柳太郎で、1962(昭和37)年、東映では三國連太郎でリメークしている。
1962(昭和37)年の東映作品では映画の主題歌として、村田英雄が歌った「王将」(作詞・西條八十、作曲・船村徹)が大ヒット。歌は1962(昭和37)年のレコード大賞特別賞を受賞した。この「王将」、歌と共に今でも語り継がれる秀作である。
ちなみに、坂田三吉は実在した将棋界の奇才を北条秀司が戯曲化したもので、主題歌を作詞した西條八十は、将棋を全く知らなかった。
