1966(昭和41)年〜1988(昭和63)年
大映の貴公子・市川雷蔵

1931(昭和6)年京都市生まれ。この人は出生から暗い過去を背負うことに成る。雷蔵の父は母が雷蔵を妊娠中に軍部の幹部候補生とし奈良に移り、母は夫の実家で過ごすが、夫親族の凄いいじめに会い、夫に助けを求めるが無視される。

そのため母は耐えきれず自分の実家で雷蔵を産む。その時、既に夫婦仲は決裂していた。母はひとりで雷蔵を育てるつもりだったが、父の義兄に当たる歌舞伎役者、三代目九團次が雷蔵を養子に望むので、母は雷蔵を九團次の養子にする。しかし、九團次は何故か、雷蔵に歌舞伎役者の修行はさせなかった。
1946(昭和21)年、中学校を中退してまで歌舞伎役者になることを選んだ雷蔵は、その後、九團次の置かれた現実を知る。九團次は元々歌舞伎にあこがれて二代目市川左團次に弟子入りしたにすぎず、権門の出ではない。
九團次は上方歌舞伎において、脇役しか舞台に立てない役者だった。雷蔵はその息子であることに苦しみ続ける。また16歳の時、雷蔵は自身が九團次の養子で有る事も初めて知る。
大映所属の映画俳優に転身
その後、1951(昭和26)年、三代目市川壽海に請われ養子となる。歌舞伎界の門閥などに嫌気がさしていた雷蔵は、1954(昭和29)年、大映所属の映画俳優に転身する。
23歳の時である。映画俳優になることを決めた後、雷蔵は映画館に足繁く通って東映時代劇のスター中村錦之助の演技を研究したという。

大映入りの1954(昭和29)年、「花の白虎隊」(監督・田坂勝彦)で映画デビュー。大映は関西歌舞伎界の重鎮・市川壽海の子である雷蔵を、長谷川一夫に続くスターとして売り出すことを決める。1954(昭和29)年12月24日公開「潮来出島 美顔剣法」。1955(昭和30)年1月29日公開の「次男坊鴉」と立て続けに主役を張る。
雷蔵は一躍注目を集める
その後、1955(昭和30)年9月21日に公開した「新・平家物語」(監督・溝口健二)で大ブレーク。雷蔵は一躍注目を集める。これ以降、年間10本以上の映画に出演し、休日返上で撮影を行う多忙な日々を送るようになる。
多彩な作品に主演
その後、多くの作品に出演。主な代表作は「新平家物語」(監督・溝口健二)、「弥太郎笠」(監督・森一生)、「忠臣蔵」(監督・渡辺邦男)、「炎上」(監督・市川崑)、「弁天小僧」(監督・伊藤大輔)、「薄桜記」(監督・伊藤大輔)、「ぼんち」(監督・市川崑)、「濡れ髪喧嘩旅」(監督・森一生)、「大菩薩峠」(監督・衣笠貞之助)、「沓掛時次郎」(監督・池広一夫)、「破壊」(監督・市川崑)、「忍びの者」シリーズ(監督・山本薩夫、ほか)、「新撰組始末記」(監督・三隅研二)、「眠り狂四郎」シリーズ(監督・田中徳三・ほか)、「若親分」シリーズ(監督・池広一夫・ほか)、「陸軍中野学校」シリーズ(監督・増村保造・ほか)、「華岡青洲の妻」(監督・増村保造)と多彩な作品に主演した。その中で、雷蔵の代表作と言えるのは「炎上」と「眠り狂四郎」シリーズだろう。
原作は三島由紀夫の「金閣寺」
「炎上」は1958(昭和33)年8月19日公開。原作は三島由紀夫の「金閣寺」。当初社内では、雷蔵の起用に疑問視したり、反対する意見もあった。しかし「俳優・市川雷蔵を大成させる跳躍台としたい」と言う意見で起用が決定。
この役は、吃音賞に劣等感を持つ、暗い学生僧が金閣寺を延焼させる話で、雷蔵はこの役を見事に演じ、世間でも高く評価された。
演出をした市川崑監督は「百点満点をつけて良いと思います。もう何も言うことないですよ」と語った。また大映監督の田中徳三は「雷蔵の複雑な生い立ち、心の他の部分の様なものが出ていて、役と重なり合っていた」と評している。
この作品、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞男優主演賞などを受賞し、雷蔵はトップスターとしての地位を築いた。
ダンディズム、ニヒリズムを表現

「眠り狂四郎」シリーズ(原作・柴田錬三郎)の第1作は1963(昭和38)年11月に日公開の「眠り狂四郎 殺法帖」(監督・田中徳三)から始まった。全部で一二作製作している。雷蔵の晩年を代表するシリーズとなった。雷蔵は狂四郎の虚無感、ダンディズム、ニヒリズムを表現する役作りに成功した。
「眠り狂四郎」シリーズの雷蔵を見て勝新太郎は「雷ちゃんは眠り狂四郎を、殺陣でもセリフでもなく、顔でやっていたんだと俺は思うよ」と言い。監督・池広一夫は「何も言わないで、表情もなしで、ただ歩いている姿だけで、背負っている過去みたいなものを表現した」と評している。
撮影中に下血に見舞われ入院
雷蔵のこの「眠り狂四郎」と「陸軍中野学校」シリーズは経営の苦しい大映に取ってのドル箱だった。八面六臂の活躍をしていた雷蔵だったが、1968(昭和43)年6月、「関の弥太つぺ」撮影中に下血に見舞われ入院。
直腸がんだった。本人には知らせなかった。下痢に悩まされながら退院。退院後「眠り狂四郎 悪女狩り」「博徒一代 血祭り不動」の撮影を行ったが体力の衰えが激しく立ち回りは吹き替えで撮影した。
1969(昭和44)年2月、2度目の手術で入院。7月17日、肝臓への癌転移が悪化し逝去。37歳の短い生涯だった。雷蔵は闘病中、知人の見舞いを一斉拒否。痩せた顔を見られることを嫌った。
妻は雷蔵の顔に白布を二重巻きにし、火葬されるまで解くことをしなかった。なお雷蔵の妻は大映社長・永田雅一の養女雅子。3人の子供がいる。また雷蔵は実母と対面をしたのは30歳を過ぎてからのことだった。