映画、産業へと始動

ところで大正初期、1本の映画製作費はどれ位だったのか紹介しておこう。装置(機材)、衣装、大道具、小道具、出写(ロケーション)費、雑費、俳優費、その他、撮影に関する一切の経費をひっくるめて、1本30円(但しフィルム代を除く)であった。
当時の白米10キロが、1円78銭であったから、現在の価格にすると、およそ123万円になる。貨幣価値が違うとはいえ、まったく安くて嘘のような話である。

もっとも、当時はフィルムの使用量も極めて少なく、3千フィートのネガ・フィルム(陰画)と、1万フィートのポジ・フィルム(陽画)があれば3本の映画が出来たし、製作日数も大体3日程度というのだから、現在の撮影方法と条件を考えると、隔世の感がある。
したがって、作品内容も活動写真と呼ばれた通り、写真が動いて見えれば良かったし、ましてや、映画芸術の芽生えはおろか、劇映画の形態すら生まれなかった。活動写真とはいえば、舞台役者に出て貰い、舞台のままの芝居を写真に撮って、それをスクリーンに再現したものだった。
だから知識人からは「写真芝居」と揶揄された。併せて無声映画だったから、内容を説明する「声色弁士」(声帯模写)を必要とした。男役、女役、仇役、子役と、登場人物とほとんど同数の声色弁士がステージの両袖に分かれて登場し、鳴物囃子よろしくそれぞれの役割を分担してセリフをやりとりした。
活動写真は唯一の大衆的娯楽

いわば当時の活動写真というものは、見世物に毛の生えたような物だった。それでも、高い入場料の芝居見物には縁遠い庶民階級にとっては、唯一の大衆的娯楽であった。
そうした中、純映画劇製作運動が起こった。外国映画の手法に刺激されたものである。この運動の先鞭をつけたのは、先に記した帰山教正で、1918(大正7)年、同氏は映画芸術協会を起し、初めて「会話字幕」「説明字幕」を挿入した「深山の乙女」「生の輝き」を発表した。
この作品は日本映画の芸術的発展への素地を作った。映画に女優を登用したのも最初であった。加えて映画芸術協会は、独立プロダクションの先覚者となった。
その後、第1次世界大戦が終結(1918(大正7)年11月)すると、戦後の好況を受けて、それまで日の目を見なかった映画事業も投資の対象として見られ、現場は群雄割拠の時代に入る。まさに映画事業は開花期から成長期へと発展しようとしていた。こうした時期に松竹が登場した。
大正9年「松竹」誕生!
1920(大正9)年の映画界は、古典劇的活動写真から洋画を手本とする純活動写真をめざして、急激な変容を遂げつつあった。
この年の一番の話題は、2月、「松竹キネマ合名会社」が創立され、撮影所の建設や、俳優、従業員などの募集が始まり、今の松竹映画がスタートしたことだった。
松竹は白井松太郎、大谷竹次郎の双子の兄弟によって創設された会社である。会社名も兄の松と弟の竹の頭文字を組み合わせて「松竹」となった。兄弟は8歳のころから、京都四条花見小路の「祇園座」で両親と共に育った。

1902(明治35)年、兄弟が26歳のとき、京都の「阪井座」という芝居小屋の経営を足場に松竹合名会社を起こし、またたく間に、京阪劇場の経営権を握る。1907(明治40)年、余勢をかつて弟の竹次郎が単身東京へ進出。幾多の波瀾曲折を経て、歌舞伎座をはじめ大半の主要劇場を獲得し、関西、東京の興行界を掌中に収める。
しかし、当時の松竹は演劇専門で、活動写真には手を出していなかった。ところが日活に貸していた大阪道頓堀の活動写真上映館「朝日座」の収益が良く、家主の松竹へ多額の歩合が入って来た事から、利に聡い松竹がこれを見逃すわけが無かった。
活動写真の製作と配給興行に乗り出した
早速、1920(大正9)年2月、松竹キネマ合名会社を創業。東京市蒲田に撮影所を建設した。松竹はアメリカから招いた技術者の下で、製作を開始。当時の蒲田はそこいら中、一面の田んぼ。雨が降ればぬかるみ、おまけに隣には高砂香料という香水会社があり、スタジオには強烈な悪臭がただよっていた。

しかしここがやがて、全国のキネマファンのあこがれのパラダイスとなって行く。
松竹キネマ合名会社(以後、松竹キネマ)は活動写真の製作と配給興行に乗り出したが、もともと歌舞伎の興行会社である。その松竹キネマが、歌舞伎の本家本元でありながら、最初から女形はいっさい使わず、いきなり女優を採用した。
尾上松之助がまだ健在で、相変わらず旧劇風 立川文庫物のチャンバラで活躍している日活でも、松竹に対抗して、いよいよ女優の採用に踏み切っているのが興味深い。
