1926(昭和元年)年〜1934(昭和9)年
完全トーキー化まで難産続く
初期のトーキーには、機械式の音声機に似た音量の不足、音声の不明確さという欠点も多くみられた。しかし、1927(昭和2)年に、アメリカで製作された本格的トーキー映画「ジャズシンガー」という立派な見本があるので、日本の映画界もこれを無視して無声映画に固執することはさすがにできなかった。
もし、外国から続々と入って来るトーキー映画を無視すれば、国際競争の波に乗り遅れることは目に見えていたからだ。むろん日本でも、トーキー化への試みは行われていた。皆川芳造が、小山内薫の監督で製作した「黎明」は、新劇俳優たちが出演した30分足らずの映画だったが、これがもし成功していれば、世界で最初のトーキーになるはずだった。
しかし、東京で試写をした後、一般には公開されず、地方の劇場で添えものとして使われたに過ぎなかった。同じシステムで1930(昭和5)年、日活第1回トーキー映画と銘打って、溝口健二監督が「ふるさと」を製作しているが、こちらは部分トーキーというもの。
トーキー初期の、試行錯誤的作品
主役の歌手、藤原義江が歌うところだけは、きちんと録音されているが、セリフにいたっては、簡単な部分だけが録音され、複雑なところは字幕のままという不完全なものであった。これもトーキー初期の、試行錯誤的作品のひとつだった。

この時期のトーキーの特徴は、レコードと映画の結びつきが挙げられる。ビクターやコロムビアなど、アメリカのレコード会社が日本に資本を投入し、上陸して来た。そのため電気吹き込みによるレコードが、大量にそして安価に提供されるようになった。
映画に主題歌をつけて、宣伝に使うようになるのもこの頃から。1929(昭和4)年あたりからは、主要な映画には必ず主題歌が付くようになり、またその歌は流行歌としてレコード発売された。日活はビクター、松竹はコロムビアといったぐあいに、各社それぞれアメリカ系のレコード会社と提携した。
このため、未曽有ともいえる映画主題歌氾濫時代を招いてしまい、本格的トーキーの出現を少し遅らせてしまった。おまけに、映画とレコードの資本的な結びつきで、レコード式のトーキー会社なども出来たが、試作的に手をつけただけで芳しくない成績に終わっていた。
そうした、ひとしきり大きな波が去った後の、1931(昭和6)年、外国映画のトーキー物が続々と入って来た。
活弁士の息の根を完全に止めたスーパーインポーズ
ときあたかも関東軍が南満洲の柳条湖付近で線路を爆破(9月18日)し、「満洲事変」が勃発した年である。ドイツのレマルク原作で第2次大戦を描いた名画、「西部戦線異状なし」。
バリモアの「海の巨人」。ルネ・クレールの名品「巴里の屋根の下」などが有った。
これらのトーキー映画は、トーキーの調子を少し下げ、説明者が日本語で解説した。今でも、外国語のままで映画を楽しめる人は、そう多くは無い。
まして昭和の初期の頃である。見る方にしても、そのほうが楽に楽しめたに違いない。この時点では、弁士にもまだ生き延びる道は残されていた。
ところが、スーパーインポーズが採用されるにおよんで、事情ががらりと変わる。最初に入って来たのが、ゲイリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒの「モロッコ」であった。
この映画が全発声日本版として、日本字幕付きで、この年の夏、北海道でも“無説明上映”された。これがまた大ヒット。観客はトーキーの素晴らしさを知った。併せて、この「モロッコ」が活弁士の息の根を完全に止めてしまった作品でもあった。