
1896(明治29)年〜1911(明治44)
原田文治郎・赤帽子巡業隊
1902(明治35)年、札幌の山鼻村(当時)に札幌座が新築された。もともと、歌舞伎の公演劇場となる予定で建てられたこの劇場、出来上がると天井と欄間に広告を入れた。
この広告の仕事を引き受けたのは、後に赤帽子巡業隊を組織して、札幌の劇場に活動写真フィルムを提供し、北海道の興行に先鞭をつけた「赤帽子」こと原田文治郎である。
いつもトレードマークの、赤い帽子をかぶっていた風変わりな男だったが、名優 羽左衛門の父と兄弟で、若い頃、外人をぶん殴って朝鮮へ高飛びしたが、ほとぼりが覚めた頃、帰国し札幌で看板業などを営んだ。この男、札幌では知らぬ者のない名物男だった。
原田文治郎は、看板業のほかに私設楽隊をつくって、札幌の音楽界にも先鞭をつけた男である。後に、旭川と札幌に活動常設館をつくる「神田床」の佐藤市太郎とは兄弟分の間柄であった。
さて、この原田文治郎が、まだ活動常設館のない札幌で、フィルムやジンタを貸し出す「赤帽子活動写真会」をつくったのは、1905(明治38)年のことだ。
映画の宣伝隊ジンタの活躍
そのころの活勣写真につきものはジンタである。ジンタとは大太鼓、小太鼓、クラリネット、コルネット、バリトンなどの楽器を使った小人数の吹奏楽隊のこと。
明治から大正にかけて、札幌の新聞店主、森佐久間の抱えているジンタが名を知られていたが、もともと森は、赤帽子活動写真会のジンタで太鼓をたたいていた。1907(明治40)年頃に独立して、新聞販売を始めるともに楽隊も引き継いだ。


それから数年後の1910(明治42)年6月3日の新聞に、次のような記事が載っている。「名物男赤帽逝く。札幌の名物男として、広く名を知られる赤帽子元祖、北一条西三丁目の看板屋、原田文治郎氏は久しく病気中であったが、あの元気者にも薬石の効なく、ついに昨日逝去した。
氏は西尾の生まれで、散々東京で飛び回ったあげく、1891(明治24)年札幌に渡り、看板店や新聞販売店やら、はたまた興行師やら、ありとあらゆる事を始め「すこぶる非常の愛嬌者」と珍重がられていたのだが、測り難きは娑婆の習い。赤帽変じて、白帽の故人となるとは、痛ましいかな、享年51歳」。
1909(明治42)年9月、俳優の川上貞奴一座が鳴り物入りでやって来ている。小樽で大評判をとり、その余勢を駆って札幌になだれ込む。新聞も派手に書き立てた。おかげで木戸は大混雑、警官が整理に当たった。興行は日延べする程大盛況だった。
この興行のすぐ後、同じ劇場に横田巡業隊が入った。5日間の興行で、出し物は「江州の大地震」「史劇・児島高徳」「ドイツ戦争」「北氷洋航海」その他10本ほど。興行は、パッとせず、日延べすることもなく5日間で終了。
この年の2月に同じ劇場で興行を打ち、大好評で何日間も日延べしたのが嘘のようであった。川上貞奴一座に、すっかり食われてしまったのである。
フランスとアメリカ映画の創世
日本で活動写真が活況を迎えていたこの時期、海外事情はどうだったのか。フランスで活動写真が発明された時、真っ先に飛びついたのが魔術師達であった。魔術師のリミエール兄弟が、機材とフィルムを借りて、「銀幕の魔術師」を撮った。また「映画のジュール・ヴェルヌ」と称されたジョルジュ・メリエスは生涯に400本の短編映画を作った。

活動写真の技術を学んだ魔術師たちは、いろんな活動写真を作った。これらの初期作品に共通してみられるものは、グロテスクとブラック・ユーモアで、創造的な作品は観客を大いに喜ばせた。
「幽霊の写真を撮ろうとするが、相手はいっこうに静止しようとせず、ついに消滅してしまう」(G・A・スミス「幽霊撮影」1898(明治31)年。
「散髪屋が誤って客の首を切り落としてしまい、なんとか別の客の首をくっつけて、ごまかす。何も気づかぬ客は満足して帰って行く」(作者不詳「気違い散髪屋」1899(明治32)年。
「猛スピードで走っていた自動車が大爆発を起こす。駆けつけた警官が現場を調べていると、バラバラになった手足が、タイヤやハンドルと一緒に空から降って来る」(ヘッブウォース「自動車の愉しみ」1903(明治36)年。これらの作品は、いずれも数分の長さであったが、本質的に活動写真だったといえる。
アメリカでは、映画を発明したのはエジソンだといわれている。しかし、彼の研究室でスクリーンに投射する映写機の研究をしていたのは、実は助手のディクソンであった。
やがて、ディクソンは、エジソンのもとを離れ、ニューヨークでバイオグラフ社を設立する。そしてスクリーンに映写する優秀な映写機を開発し発売した。
常設映画館誕生から4年で1万館
アメリカの最初の常設活動写真館は、1902(明治35)年ロサンゼルスに誕生した。1905(明治38)年になっても映画常設館の数は、たった10館しかなかった。だが、そのわずか4年後の1909(明治42)年には、1万館にも脹れ上がっていた。まるでがん細胞並みの、異常増殖といえる。
アメリカの活動写真、最初のクリーンヒットは、1903(明治36)年の「大列車強盗」である。エドウィン・ボーターが監督した、上映時間が30分ほどの活動写真だが、劇映画の始祖といえるものだ。
それまでは、舞台で演じられる演劇をそのまま撮影していたが、ポーターは始めて舞台劇を脱した自然な演技で活動写真を撮った。彼こそが、劇映画スタイルの創始者で、この「大列車強盗」は、封切と同時に大ヒットとなり、朝の8時から真夜中まで連続上映した。
それが数ヶ月も続いた。この成功が活動写真は「儲かる」という概念を生んだ。ヨーロッパではアートとして育っていくが、アメリカでは創世紀から既に娯楽産業として重視されていく。
こうした動きが徐々に日本に伝わり、活動写真が少しずつ形を変えて行く。
