• Skip to primary navigation
  • Skip to main content
  • Skip to primary sidebar
  • Skip to footer

日本映画100年史

本【日本映画100年史】をリアルタイムで加筆していく、ライブブックブログ!

  • 令和
  • 平成
  • 昭和(後期)
  • 昭和(中期)
  • 昭和(初期)
  • 大正
  • 明治
  • アニメ
  • よもやま話

創造的な作品は観客を大いに喜ばせた

2019.06.17 by 西川昭幸

0

1896(明治29)年〜1911(明治44)

原田文治郎・赤帽子巡業隊 

1902(明治35)年、札幌の山鼻村(当時)に札幌座が新築された。もともと、歌舞伎の公演劇場となる予定で建てられたこの劇場、出来上がると天井と欄間に広告を入れた。

この広告の仕事を引き受けたのは、後に赤帽子巡業隊を組織して、札幌の劇場に活動写真フィルムを提供し、北海道の興行に先鞭をつけた「赤帽子」こと原田文治郎である。

いつもトレードマークの、赤い帽子をかぶっていた風変わりな男だったが、名優 羽左衛門の父と兄弟で、若い頃、外人をぶん殴って朝鮮へ高飛びしたが、ほとぼりが覚めた頃、帰国し札幌で看板業などを営んだ。この男、札幌では知らぬ者のない名物男だった。

原田文治郎は、看板業のほかに私設楽隊をつくって、札幌の音楽界にも先鞭をつけた男である。後に、旭川と札幌に活動常設館をつくる「神田床」の佐藤市太郎とは兄弟分の間柄であった。

さて、この原田文治郎が、まだ活動常設館のない札幌で、フィルムやジンタを貸し出す「赤帽子活動写真会」をつくったのは、1905(明治38)年のことだ。

映画の宣伝隊ジンタの活躍

そのころの活勣写真につきものはジンタである。ジンタとは大太鼓、小太鼓、クラリネット、コルネット、バリトンなどの楽器を使った小人数の吹奏楽隊のこと。

明治から大正にかけて、札幌の新聞店主、森佐久間の抱えているジンタが名を知られていたが、もともと森は、赤帽子活動写真会のジンタで太鼓をたたいていた。1907(明治40)年頃に独立して、新聞販売を始めるともに楽隊も引き継いだ。

活動写真宣伝隊 明治30年
活動写真宣伝隊 明治30年

それから数年後の1910(明治42)年6月3日の新聞に、次のような記事が載っている。「名物男赤帽逝く。札幌の名物男として、広く名を知られる赤帽子元祖、北一条西三丁目の看板屋、原田文治郎氏は久しく病気中であったが、あの元気者にも薬石の効なく、ついに昨日逝去した。

氏は西尾の生まれで、散々東京で飛び回ったあげく、1891(明治24)年札幌に渡り、看板店や新聞販売店やら、はたまた興行師やら、ありとあらゆる事を始め「すこぶる非常の愛嬌者」と珍重がられていたのだが、測り難きは娑婆の習い。赤帽変じて、白帽の故人となるとは、痛ましいかな、享年51歳」。

1909(明治42)年9月、俳優の川上貞奴一座が鳴り物入りでやって来ている。小樽で大評判をとり、その余勢を駆って札幌になだれ込む。新聞も派手に書き立てた。おかげで木戸は大混雑、警官が整理に当たった。興行は日延べする程大盛況だった。

この興行のすぐ後、同じ劇場に横田巡業隊が入った。5日間の興行で、出し物は「江州の大地震」「史劇・児島高徳」「ドイツ戦争」「北氷洋航海」その他10本ほど。興行は、パッとせず、日延べすることもなく5日間で終了。

この年の2月に同じ劇場で興行を打ち、大好評で何日間も日延べしたのが嘘のようであった。川上貞奴一座に、すっかり食われてしまったのである。

フランスとアメリカ映画の創世 

日本で活動写真が活況を迎えていたこの時期、海外事情はどうだったのか。フランスで活動写真が発明された時、真っ先に飛びついたのが魔術師達であった。魔術師のリミエール兄弟が、機材とフィルムを借りて、「銀幕の魔術師」を撮った。また「映画のジュール・ヴェルヌ」と称されたジョルジュ・メリエスは生涯に400本の短編映画を作った。

世界初SF映画「月旅行」明治35年
世界初SF映画「月旅行」明治35年

活動写真の技術を学んだ魔術師たちは、いろんな活動写真を作った。これらの初期作品に共通してみられるものは、グロテスクとブラック・ユーモアで、創造的な作品は観客を大いに喜ばせた。

「幽霊の写真を撮ろうとするが、相手はいっこうに静止しようとせず、ついに消滅してしまう」(G・A・スミス「幽霊撮影」1898(明治31)年。

「散髪屋が誤って客の首を切り落としてしまい、なんとか別の客の首をくっつけて、ごまかす。何も気づかぬ客は満足して帰って行く」(作者不詳「気違い散髪屋」1899(明治32)年。

「猛スピードで走っていた自動車が大爆発を起こす。駆けつけた警官が現場を調べていると、バラバラになった手足が、タイヤやハンドルと一緒に空から降って来る」(ヘッブウォース「自動車の愉しみ」1903(明治36)年。これらの作品は、いずれも数分の長さであったが、本質的に活動写真だったといえる。

アメリカでは、映画を発明したのはエジソンだといわれている。しかし、彼の研究室でスクリーンに投射する映写機の研究をしていたのは、実は助手のディクソンであった。

やがて、ディクソンは、エジソンのもとを離れ、ニューヨークでバイオグラフ社を設立する。そしてスクリーンに映写する優秀な映写機を開発し発売した。

常設映画館誕生から4年で1万館

アメリカの最初の常設活動写真館は、1902(明治35)年ロサンゼルスに誕生した。1905(明治38)年になっても映画常設館の数は、たった10館しかなかった。だが、そのわずか4年後の1909(明治42)年には、1万館にも脹れ上がっていた。まるでがん細胞並みの、異常増殖といえる。

アメリカの活動写真、最初のクリーンヒットは、1903(明治36)年の「大列車強盗」である。エドウィン・ボーターが監督した、上映時間が30分ほどの活動写真だが、劇映画の始祖といえるものだ。

それまでは、舞台で演じられる演劇をそのまま撮影していたが、ポーターは始めて舞台劇を脱した自然な演技で活動写真を撮った。彼こそが、劇映画スタイルの創始者で、この「大列車強盗」は、封切と同時に大ヒットとなり、朝の8時から真夜中まで連続上映した。

それが数ヶ月も続いた。この成功が活動写真は「儲かる」という概念を生んだ。ヨーロッパではアートとして育っていくが、アメリカでは創世紀から既に娯楽産業として重視されていく。

こうした動きが徐々に日本に伝わり、活動写真が少しずつ形を変えて行く。

Filed Under: 明治 Tagged With: 活動写真

Primary Sidebar

著者紹介(西川昭幸)

アバター1941年北海道生まれ。東洋大学社会学部卒。
映画会社勤務などを経て現在、公益社団法人理事。
<主な著作>
「北の映画物語」(北海タイムス社)、
「美空ひばり公式完全データブック 永久保存版」(角川書店)、
「活字の映画館 明治・大正・昭和編」(ダーツ出版)、
「日本映画100年史」(ごま書房新社)、
「美空ひばり最後の真実」(さくら舎)、
「昭和の映画ベスト10、男優・女優・作品」(ごま書房新社)

四方山話

「大林宣彦監督」の画像

「映像の魔術師」大林宣彦監督死去

2020.04.16 By 西川昭幸

「理想の母」を演じた名女優・八千草薫

2020.04.04 By 西川昭幸

98歳「日本一のおばあちゃん役者」他界 2010(平成22)年

2020.04.03 By 西川昭幸

他の四方山話記事を読む

アニメ

自分の感情をストレートに出すだけが人間ではない

2020.04.01 By 西川昭幸

日本映画に対するオマージュではなく、生きようとしている人に対するオマージュ

2020.03.24 By 西川昭幸

この胸が詰まっている感じに名前を付けてください

2020.02.24 By 西川昭幸

他のアニメ記事を見る

タグ一覧

スタジオジブリ (5) トーキー映画 (5) マキノ雅弘 (5) 三船敏郎 (14) 中村錦之助 (4) 今井正 (8) 勝新太郎 (5) 原節子 (5) 吉永小百合 (5) 大映 (9) 大河内傅次郎 (4) 宮崎駿 (6) 小津安二郎 (5) 尾上松之助 (8) 山本嘉次郎 (3) 山田洋次 (8) 市川崑 (6) 市川雷蔵 (4) 新東宝 (5) 日活 (19) 木下恵介 (7) 東宝 (66) 東映 (48) 松竹 (43) 栗島すみ子 (3) 梅宮辰夫 (3) 森谷司郎 (6) 森道夫 (6) 森雅之 (3) 活動写真 (15) 深作欣二 (5) 渥美清 (6) 片岡千恵蔵 (4) 牧野省三 (5) 石原裕次郎 (7) 稲垣浩 (5) 美空ひばり (8) 衣笠貞之助 (4) 角川映画 (4) 角川春樹 (5) 阪東妻三郎 (10) 降旗康男 (4) 高倉健 (12) 高峰秀子 (6) 黒澤明 (21)

Footer

新刊紹介

最近の投稿

  • 平成14年の日本映画年間ベスト10、No.1,2,3 2020.06.18
  • 平成13年の日本映画年間ベスト10、No.7,8,9,10 2020.06.18
  • 平成13年の日本映画年間ベスト10、No.4,5,6 2020.06.01
  • 「蜜蜂と遠雷」(配給/東宝) 2020.05.23

検索

Copyright © 2021 · 日本映画100年史