1946(昭和20)年〜1965(昭和40)年

映画製作の基本的ライン
1945(昭和20)年9月3日、占領軍が映画製作の基本的ラインを示した。20日後の9月22日に、東宝・大映・日活などの代表が米軍情報頒布部を訪れ、今後の映画製作に関して具体的な指示を受けた。それは次のような内容だった。
「日本の軍国主義ならびに軍国的国家主義の撤廃、信仰、言論、集会の自由を含む自由主義的傾向の促進。日本として永久に世界平和を脅威せしめざることという占領目標の線に沿って、映画製作方針を決定すべきである」。というのが基本的指示。
劇映画については「平和国家の建設への努力、復員兵士の社会復帰状態に取材するもの、労働組合の平和的結成を奨励するもの、従来の官僚主義を廃するもの、自由と人民を代表する政府のために努力せる歴史上の人物を劇化すること。」などとなっていた。
またニュース映画については、「過去、現在、将来の軍国主義を奨励ないし承認する要素を徹底的に廃除すること。ポツダム宣言の履行に寄与する、
すべての事実、ニュースなどを記録しなければならない。たとえば、戦争の現実を語る帰還兵、日本の当面の諸問題を討議する各種団体の姿などがそれである」というものだ。
完全に自由とはいいがたい

軍部や内務省の、キビシイ締めつけや検閲からみれば、まだ納得はできるが、やはり完全に自由になり解放されたとはいいがたかった。それを裏づけるのが、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン社の東京特電で、「日本占領軍が、日本で目下製作中の映画18本の内、6本の製作を禁止した。」と伝えている。
これは、米軍情報頒布部で脚本を検閲した後に、禁止処分としたというもの。そして、アメリカ映画60本が、いっきに日本に送られて来た。
映画から「りんごの歌」流行る
1945(昭和20)年1日、札幌の各新聞に「エンゼル館」の館名変更広告が出る。これは戦時中に「たとえエンゼルであっても、敵性語の館名はけしからん」とイチャモンをつけられ、「大勝館」と勇ましい館名に変えさせられてしまったエンゼル館が、ファンも懐かしむ昔の館名に戻したのだ。
10月5日、進駐軍函館に上陸。フィリピンや沖縄などで日本軍と戦ってきた、第77歩兵師団である。2日後、いよいよ札幌に進駐して来た。8日から札幌松竹座は休館となり、そのまま進駐軍に接収され「マックネア・シアター」と館名を変え、アメリカ兵の慰安のための劇場となった。
松竹座ばかりではなかった。札幌市内の水洗トイレのある主な建物は、ほとんど接収された。
10月19日、マッカーサー司令部が日本政府に「映画製作の干渉を禁止」する命令を下した。

広島に投下された原爆の被害を伝えるニュースが、始めて札幌で上映されたのは、10月20日になってからだった。「広島の惨害」というこのフィルムを見て、人々は新型爆弾の威力と、終戦の有難さを知ったようなものだった。誰もが、「もし、こんな爆弾が札幌に投下されていたら…」と、ぞっとしたのである。
戦後初の作品は松竹作品の「そよかぜ」
戦後初の封切り映画は、1945(昭和20)年8月31日公開の松竹作品「伊豆の娘たち」(監督・五所平之助)だった。しかし、これは企画・完成ともに戦時中の物で、戦後初の作品といえるのは、1945(昭和20)年10月10日公開の、同じ松竹作品の「そよかぜ」(監督・佐々木康)である。戦後のGHQ(連合国軍総司令部)の検閲を通った第1号映画として知られる。
「そよかぜ」の物語は、レビュー劇場の照明係で歌手志望の少女みち(並木路子)が、上原謙や佐野周二扮する楽団員たちに励まされ、やがて歌手としてデビューするという、「スター誕生」の物語。
主演には23歳の松竹少女歌劇団の並木路子が抜擢され、この映画で彼女の歌う「リンゴの歌」が流行り、戦後最大のヒット曲となった。この曲は作詩・サトウ・ハチロー、作曲・万城目正、編曲・仁木他喜雄である。
「リンゴの歌」は、焦土と化した日本に、復興への希望を託すかのように、さわやかな歌詞とメロディーが流れた。この歌は、長かった戦争の重圧からの解放を象徴するかのように、国民に絶大な支持を得た。
この映画の主演女優でもあった並木は、東京大空襲で母親を失ったほか、父と兄も戦争で亡くしている。だが、そんな暗い影を感じさせない歌唱は、多くの人々を元気づけた。翌、昭和21年1月レコードが発売されると、7万枚という当時としては記録的なヒットに。日本の流行歌史に深く刻まれた歌である。
「そよかぜ」の札幌公開は10月25日だった。上映された当初は酷評だった。朝日新聞は「ムシズを走らせたいと思う人は、この映画を10分間見れば充分だろう」。キネマ旬報は「音楽映画であるにも関わらず、音楽的な感動がない」と評した。しかし主題歌は超ヒット。こうした映画評論家の大衆志向を読めない鈍感さにはいつも呆れる。
