1946(昭和20)年〜1965(昭和40)年

ニッポン復興へ
ポツダム宣言受諾で終戦になり、平和の到来を実感した日本国民だったが、空腹で住まいを失ったまま、飢えとの戦いは止むことはなかった。
国会議事堂前はイモ畑になり、全国各地で餓死者が続出した。まさに「耐ヘ難キヲ堪へ忍ビ難キヲ忍ビ」、占領下の中でニッポン復興へと歩んで行く時代だった。軍国主義教育から民主主義へ、郷土も精神も荒れ爛れた中での生活は困難を極め、日本人の知能と努力、勤勉さが試される時でもあった。
天皇は神から象徴天皇へと変身し、新憲法が発令され、自由と希望に光がさした。製造業も兵器生産から鍋釜の製造へと大転換。6・3・3制教育になり学校給食も始まった。外地からの引き揚げ者で、食糧不足が、益々深刻化するが、国民は明日への希望を捨てず、焼け跡復興に奔走していた。
そうした中、並木路子の「りんごの歌」が流行り、焼け跡、闇市から突如、天才少女歌手、美空ひばりが登場する。その歌声は、占領下の日本人に熱狂的に愛された。映画では「ギリシァ彫刻のような」と謳われた気高い美しさと知性で、原節子が戦後復興下にある大衆に、希望と明るさをもたらした。

敗戦の日
米軍による広島(8月6日)、長崎(8月9日)への原爆投下、さらにB29戦略爆撃機による空襲の繰り返しで、国土は灰燼に帰した。そして8月15日正午、日本国民は焦土の中で終戦の詔勅を知らされる。天皇の声を直立不動で聴く国民の間には、大きな虚脱感と共に、この国はいったいどうなるのだろうという不安感が広まった。

性の防波堤、特殊慰安施設協会
敗戦国の屈辱といった批判の中で、進駐軍から「女性の貞操」を守ることを目的に設立されたのが「特殊慰安施設協会」だった。8月18日に各県に内務省から通達され、料理飲食業協会や芸妓置屋同盟などの業者を招集。主旨を説明し、大蔵省提供の開業資金をもとに各地で営業を始めた。
慰安婦を芸妓や娼婦などに求めたが足りず、新聞などで一般公募した。多くの女性が仕事の内容も知らずに殺到。空襲で焼け出され、家族を養うためと経済的に困窮している女性が多かった。しかし1日10人以上の米兵たちを相手にしなければならず、女性たちは心身を病み、自ら命を絶つなどの悲劇が相次いだ。
GHQも慰安施設内での暴力事件の多発や、将兵の間に性病が蔓延し、1948(昭和21)年3月1日に施設利用を禁止した。特殊慰安施設が廃業に追いやられたため、職場を失った女性達は「夜の女」として街頭で客を求めるしかなった。
連合国軍最高司令官マッカーサー
8月30日、「国破れて山河あり」となった日本に、連合国軍最高司令官マッカーサーが、神奈川・厚木飛行場に降り立った。約40万人の連合国軍兵士が11月上旬までに国内各地に進駐した。
9月2日、横浜港約30㌔海上に停泊する、戦艦ミズーリ号(4万5千㌧)の甲板で降伏文書の調印式が行われ、周辺には海上を圧するように連合国軍艦隊が集結していた。戦争が正式に終わり、占領下の平和が訪れようとしていた。
天皇の写真に驚く
9月29日、天皇は赤坂の米国大使館に、連合国最高司令官マッカーサー元帥を訪問する。モーニング姿の天皇と、軍服のマッカーサーは通訳を介し、約35分間にわたり親しく歓談した。
その時、連合国のカメラマンが写した天皇陛下とマッカーサー元帥のツーショット写真が公開され、天皇が生々しく国民の目にさらされることになった。この写真を見て、天皇が現人神から人間天皇に戻ったことを国民は実感した。
