1926(昭和元年)年〜1934(昭和9)年

日本にトーキー登場
アメリカのレコード式トーキー映画「ドン・ファン」の出現は、あっという間に全世界に広がった。ただ、日本だけは悲しいかな、活弁全盛の下で黙殺された。しかし、皆川芳造は、この好機を逃そうとはしなかった。
トーキー映画の試みは、ひとりアメリカだけではなかった。世界各国で研究していた。ドイツではエングル博士が、そしてスウェーデンでもデンマークでも、学会のテーマとして研究されていた。
時すでに、フィルム式トーキーによる発明が次々となされていた。皆川が渡米したのは、まさにその時期だった。皆川は、帰国すると小山内薫を監督に迎え、「ミナ・トーキー」と称したフィルム式トーキーの映画製作にあたった。
皆川の創立した「昭和キネマ」のトーキー・スタジオは、東京の大森にあった映画館を改造したもので、防音設備といっても初期のことだから完全なものではなく、周囲の壁に南京袋を張りめぐらせたというお粗末さだった。
おまけにスタジオの近くを電車が走るので、仕事はもっぱら深夜。当時は撮影と録音が同時であったため、このような形式を取るより方法がなかった。ロケーションなしの物音を立てぬように息を殺しての、オールセット撮影だった。
そして、7本の短編と劇映画「黎明」をこの年の秋までに完成させた。1927(昭和2)年10月14日より1週間、東京で封切りした。「黎明」のストーリーは、作曲家でバイオリンの名手である野心家の男が、三角関係の結果、女を殺し、物狂おしくバイオリンを弾きまくるというもの。
しかし問題が有った。まだ発声映写機を備えた映画館が無かったのだ。このため興行に当たって、製作者側が発声映写機を携行するという形で行なわれた。おかげで支出経費が膨大となり、経営は赤字だった。
活弁士「トーキー“怖くない”」と快気
「私が松竹座で一本立ちした、1929(昭和4)年の時の給料が60円でした。当時、大学出のサラリーマンの初任給が、大体40円から45円くらいのものでしたから、19歳の若者にしては、相当の高級取りだったといえます。
なにせ今とちがって、1ヶ月に30円もあれば親子3人が食えた時代でしたからね。30円を家に入れ、残りの30円でたっぷり遊びました」(佐々木談)。トーキーの時代が近づいてきたとはいえ、活弁の鼻息はまだまだ荒かったといえそうだ。

「弁士仲間が集まると、活弁が生き延びられるかどうかの話ばかりでしたが、トーキー恐れるに足らずの声も強かったですよ」。
俳優が、セリフに慣れていないことの他にも、いくつか理由はあった。
トーキーは無声映画の3倍も製作費が掛かったのだ。初期のトーキーはフィルム式ではなく、土橋式と呼ばれたディスク式のもの。これはまず、第1に音量が不足していた。俳優の言うセリフが、はっきりと聞き取れない程だった。
しかも、ディスク式なので、フィルムが切れた時が大変だった。フィルムと連結されているといっても、音声装置はレコード盤で、いったんフィルムが切れると映像と音をぴたりと合わせるのが大変だった。
もう1つの理由として、コマの速度がトーキーの方が速いため、どうしてもフィルムに負担がかかり、切れやすかった。無声映画の場合、1秒間のコマ速度は最低速度で8コマ、最高で16コマ。
ところが、トーキーの場合は、24コマ。しかも手回しの映写機では駄目。使用する電気も、それまでの交流ではやはり駄目で、直流を用いなければならない。といったように、映写技術の問題、設備の問題と問題ばかりが多かった。