1926(昭和元年)年〜1934(昭和9)年

札幌育ちの活動弁士
弁士の佐々木武夫(東条秀声)が19歳で独立し、一本立ちの弁士となったのは、札幌松竹座からである。昭和初期のキネマ映画の完成期に生き、同時にトーキーの台頭に追われた最後の弁士たちの1人である。
佐々木は時代劇と、天才喜劇監督、齋藤寅次郎の、ナンセンス映画を担当した。
「トーキー到来の声が聞こえていた頃でしてね、弁士が集まるともっぱらトーキーの話ばかりでした。しかし、そのころは、まだ楽観視していましたが…」と、当時を振り返る。
「今と違って、出始めのトーキーは、相当ひどいものでしたし、役者の方も発声の勉強なんかしていません。ですから、ごもごもいうばかりで、何をいっているのかさっぱり分からないですよ。阪東妻三郎の第1回トーキー作品“新納鶴千代”なんかも完全に失敗で、阪妻はそのショックから、しばらくはトーキーをやろうとしなかったくらいです」と話す。
阪妻は、第1回のトーキー作品の失敗にこりて、その後、無声映画しか出演しなくなった。しかし、密かにトーキー映画のためのセリフ練習をしていたようである。
ある時、阪妻の弟子がその練習する声を聞いた。
だが、どうも普段の声とは違う。よくよく聞くとそれは、活弁の口調に似ていたという。阪妻は、ひょっとして、活弁のように話すのが巧い俳優だと考えていたのであろうか…。
「弁士の3大要素というのがありましてね、第1に、まず声がいいこと。

次に節回しがうまいこと。最後の1つは、文句が旨いこと、なんです。ところが、当時の映画俳優というのは地方出身者が多くて、声が聞きづらいんですよ。実は私も小樽出身、浜なまりがあるため、すんでのところで弁士失格になるところでした」。
弁士になるきっかけは、小樽公園館に見習い弁士募集の広告があり、期待に胸弾ませて出かけたはいいが、採用に当たっての試験官というのが、関東大震災のため、余儀なく東京を離れて北海道に来ていた一流どころの弁士。
言葉になまりがあると説明が聞きづらくなるからと、いったんは断られた。しかし、その後どういう訳か、採用の通知が来たという。
活キチ少年の佐々木、15歳の時である。それから4年後、晴れて一本立ちの弁士となった。1929(昭和4)年といえば、トーキー映画が足音も荒く近づいて来たころだった。
アメリカでトーキー映画完成
映画のトーキー化の試みは古くから行われていた。1890(明治23)年より前に、トーマス・エジソンの研究室の試作中の映写機ですら、片言の言葉を話し、唄さえ歌おうとしていた。日本でも意外と早い時期から、ディスク式トーキーが試作されていた。
1913(大正2)年、弥満登音響株式会社が、吉田奈良丸のレコード録音方式を応用して映画説明に使おうとしたが、技術的にうまくいかず失敗。
また同じ年に発足した日本キネトフォン株式会社は、エジソンの発明したディスク式トーキーの権利を買って、1917(大正6)年まで事業を続けたが、上映時間がせいぜい10分程度の、義太夫や芸者の手踊りくらいのものしか出来なかった。
評判になった物といえば、新劇スターだった松井須磨子が舞台でヒットさせた「復活」の「カチューシャの唄」くらいだった。

貿易商の皆川芳三が三極真空管を発明したデ・フォレスト博士の、フィルム式トーキーの権利を買って日本に持ってきたのが1927(昭和2)年。皆川は日本初のトーキー・スタジオの建設をめざし、この年1月「昭和キネマ」を大森に創立する。
しかし、「昭和キネマ」で完成した作品は、相当額の研究費と宣伝費を使ったにもかかわらず、一部の好事家が見たくらいで一般の話題にはならなかった。皆川はすぐ興行を打ち切り、撮影技師を伴い、研究のため渡米していく。
それより前、三極真空管の増幅機能を利用して、アメリカのベル研究所では、マイクロホンを使用するレコードの電気式吹き込みに成功している。これによってレコード会社は異常なほどの躍進を遂げる。これを、その親会社が見逃さなかった。
ウェスターン社は、レコード式トーキー「ドン・ファン」を1926(大正15)年に試作し、この実験を映画に結びつけ成功する。
その技術の優秀さに、不振のアメリカ映画界にセンセーションを巻き起こした。エジソンがキネトフォンを製作してから16年目にして、観客は劇場のすみずみまではっきりと聞こえる、トーキー映画を初めて体験したのだ。
