• Skip to primary navigation
  • Skip to main content
  • Skip to primary sidebar
  • Skip to footer

日本映画100年史

本【日本映画100年史】をリアルタイムで加筆していく、ライブブックブログ!

  • 令和
  • 平成
  • 昭和(後期)
  • 昭和(中期)
  • 昭和(初期)
  • 大正
  • 明治
  • アニメ
  • よもやま話

トーキーの足音が聞こえる

2019.06.09 by 西川昭幸

0

1926(昭和元年)年〜1934(昭和9)年

札幌育ちの活動弁士

弁士の佐々木武夫(東条秀声)が19歳で独立し、一本立ちの弁士となったのは、札幌松竹座からである。昭和初期のキネマ映画の完成期に生き、同時にトーキーの台頭に追われた最後の弁士たちの1人である。

佐々木は時代劇と、天才喜劇監督、齋藤寅次郎の、ナンセンス映画を担当した。

「トーキー到来の声が聞こえていた頃でしてね、弁士が集まるともっぱらトーキーの話ばかりでした。しかし、そのころは、まだ楽観視していましたが…」と、当時を振り返る。

「今と違って、出始めのトーキーは、相当ひどいものでしたし、役者の方も発声の勉強なんかしていません。ですから、ごもごもいうばかりで、何をいっているのかさっぱり分からないですよ。阪東妻三郎の第1回トーキー作品“新納鶴千代”なんかも完全に失敗で、阪妻はそのショックから、しばらくはトーキーをやろうとしなかったくらいです」と話す。

阪妻は、第1回のトーキー作品の失敗にこりて、その後、無声映画しか出演しなくなった。しかし、密かにトーキー映画のためのセリフ練習をしていたようである。

ある時、阪妻の弟子がその練習する声を聞いた。

だが、どうも普段の声とは違う。よくよく聞くとそれは、活弁の口調に似ていたという。阪妻は、ひょっとして、活弁のように話すのが巧い俳優だと考えていたのであろうか…。

「弁士の3大要素というのがありましてね、第1に、まず声がいいこと。

次に節回しがうまいこと。最後の1つは、文句が旨いこと、なんです。ところが、当時の映画俳優というのは地方出身者が多くて、声が聞きづらいんですよ。実は私も小樽出身、浜なまりがあるため、すんでのところで弁士失格になるところでした」。

弁士になるきっかけは、小樽公園館に見習い弁士募集の広告があり、期待に胸弾ませて出かけたはいいが、採用に当たっての試験官というのが、関東大震災のため、余儀なく東京を離れて北海道に来ていた一流どころの弁士。

言葉になまりがあると説明が聞きづらくなるからと、いったんは断られた。しかし、その後どういう訳か、採用の通知が来たという。

活キチ少年の佐々木、15歳の時である。それから4年後、晴れて一本立ちの弁士となった。1929(昭和4)年といえば、トーキー映画が足音も荒く近づいて来たころだった。

アメリカでトーキー映画完成

映画のトーキー化の試みは古くから行われていた。1890(明治23)年より前に、トーマス・エジソンの研究室の試作中の映写機ですら、片言の言葉を話し、唄さえ歌おうとしていた。日本でも意外と早い時期から、ディスク式トーキーが試作されていた。

1913(大正2)年、弥満登音響株式会社が、吉田奈良丸のレコード録音方式を応用して映画説明に使おうとしたが、技術的にうまくいかず失敗。

また同じ年に発足した日本キネトフォン株式会社は、エジソンの発明したディスク式トーキーの権利を買って、1917(大正6)年まで事業を続けたが、上映時間がせいぜい10分程度の、義太夫や芸者の手踊りくらいのものしか出来なかった。

評判になった物といえば、新劇スターだった松井須磨子が舞台でヒットさせた「復活」の「カチューシャの唄」くらいだった。

レコードトーキーバイタフォンの映写室
レコードトーキー バイタフォンの映写室

貿易商の皆川芳三が三極真空管を発明したデ・フォレスト博士の、フィルム式トーキーの権利を買って日本に持ってきたのが1927(昭和2)年。皆川は日本初のトーキー・スタジオの建設をめざし、この年1月「昭和キネマ」を大森に創立する。

しかし、「昭和キネマ」で完成した作品は、相当額の研究費と宣伝費を使ったにもかかわらず、一部の好事家が見たくらいで一般の話題にはならなかった。皆川はすぐ興行を打ち切り、撮影技師を伴い、研究のため渡米していく。 

それより前、三極真空管の増幅機能を利用して、アメリカのベル研究所では、マイクロホンを使用するレコードの電気式吹き込みに成功している。これによってレコード会社は異常なほどの躍進を遂げる。これを、その親会社が見逃さなかった。

ウェスターン社は、レコード式トーキー「ドン・ファン」を1926(大正15)年に試作し、この実験を映画に結びつけ成功する。

その技術の優秀さに、不振のアメリカ映画界にセンセーションを巻き起こした。エジソンがキネトフォンを製作してから16年目にして、観客は劇場のすみずみまではっきりと聞こえる、トーキー映画を初めて体験したのだ。

Filed Under: 昭和(初期) Tagged With: 齋藤寅次郎

Primary Sidebar

著者紹介(西川昭幸)

アバター1941年北海道生まれ。東洋大学社会学部卒。
映画会社勤務などを経て現在、公益社団法人理事。
<主な著作>
「北の映画物語」(北海タイムス社)、
「美空ひばり公式完全データブック 永久保存版」(角川書店)、
「活字の映画館 明治・大正・昭和編」(ダーツ出版)、
「日本映画100年史」(ごま書房新社)、
「美空ひばり最後の真実」(さくら舎)、
「昭和の映画ベスト10、男優・女優・作品」(ごま書房新社)

四方山話

「大林宣彦監督」の画像

「映像の魔術師」大林宣彦監督死去

2020.04.16 By 西川昭幸

「理想の母」を演じた名女優・八千草薫

2020.04.04 By 西川昭幸

98歳「日本一のおばあちゃん役者」他界 2010(平成22)年

2020.04.03 By 西川昭幸

他の四方山話記事を読む

アニメ

自分の感情をストレートに出すだけが人間ではない

2020.04.01 By 西川昭幸

日本映画に対するオマージュではなく、生きようとしている人に対するオマージュ

2020.03.24 By 西川昭幸

この胸が詰まっている感じに名前を付けてください

2020.02.24 By 西川昭幸

他のアニメ記事を見る

タグ一覧

スタジオジブリ (5) トーキー映画 (5) マキノ雅弘 (5) 三船敏郎 (14) 中村錦之助 (4) 今井正 (8) 勝新太郎 (5) 原節子 (5) 吉永小百合 (5) 大映 (9) 大河内傅次郎 (4) 宮崎駿 (6) 小津安二郎 (5) 尾上松之助 (8) 山本嘉次郎 (3) 山田洋次 (8) 市川崑 (6) 市川雷蔵 (4) 新東宝 (5) 日活 (19) 木下恵介 (7) 東宝 (66) 東映 (48) 松竹 (43) 栗島すみ子 (3) 梅宮辰夫 (3) 森谷司郎 (6) 森道夫 (6) 森雅之 (3) 活動写真 (15) 深作欣二 (5) 渥美清 (6) 片岡千恵蔵 (4) 牧野省三 (5) 石原裕次郎 (7) 稲垣浩 (5) 美空ひばり (8) 衣笠貞之助 (4) 角川映画 (4) 角川春樹 (5) 阪東妻三郎 (10) 降旗康男 (4) 高倉健 (12) 高峰秀子 (6) 黒澤明 (21)

Footer

新刊紹介

最近の投稿

  • 平成14年の日本映画年間ベスト10、No.1,2,3 2020.06.18
  • 平成13年の日本映画年間ベスト10、No.7,8,9,10 2020.06.18
  • 平成13年の日本映画年間ベスト10、No.4,5,6 2020.06.01
  • 「蜜蜂と遠雷」(配給/東宝) 2020.05.23

検索

Copyright © 2021 · 日本映画100年史