1926(昭和元年)年〜1934(昭和9)年

シリアスな「国定忠次」受ける
1927(昭和2)年、サイレント映画の名作が生まれた。京都の日活大将軍撮影所で製作された、大河内傅次郎主演の「忠次旅日記」(監督・伊藤大輔)である。(注・タイトルは忠治ではなく、忠次)

この作品、第1部「甲州殺陣編」、第2部「信州血笑編」、第3部「御用編」の3部からなるシリーズ作である。「国定忠次は鬼より怖い、にっこり笑って人を斬る」と歌われた幕末の上州(群馬)の俠客忠次は、悪代官をこらしめて農民を救う英雄として、浪曲や大衆演劇で人気を集め、新国劇の舞台や、尾上松之助主演による映画化が行われていた。
しかし、この映画は従来の颯爽とした英雄忠次像を廃し、子分に裏切られて破滅していく人間くさい忠次像を映画化しようとした。だが、経営陣は、尾上松之助などが演じていた、ヒーローとしての忠次にこだわり、許可しなかった。止む無く、伊藤監督は第1部「甲州殺陣編」は英雄忠次を描いて上映する。
これが大好評を得たので、第2部から人間忠次を撮って行く。3部作とも、外国映画の影響を受けた斬新な演出、動きのあるカメラワーク、御用提灯の効果的な使用、大河内傅次郎(29歳)の迫真の演技、激しい立ち回り、字幕の巧妙な使用など、従来の時代劇と違う新しさが評価された。
作品は大ヒットし、芸術的にも高く評価され、監督・伊藤大輔、撮影・唐沢弘光、主演・大河内傅次郎はゴールデンコンビとして人気を得る。以降このトリオは、「新版大岡政談」「興亡新撰組」「御誂次郎吉格子」などの、サイレント時代劇の名作を世に出していく。
また、この頃、世間を騒がせた映画といえば、何といっても「砂絵呪縛」の競作で、最初に作ったのは阪妻プロであった。これに対抗してまず日活が、阿部五郎を主役に抜擢して同じ「砂絵呪縛」を作る。すると、負けてなるかと、帝キネでも、月形龍之助で「砂絵呪縛」を製作。
こうして3本の「砂絵呪縛」が、東京と札幌で同時封切という、激しいチャンバラ合戦を始めた。町中を映画館の宣伝カーが、けたたましく走り回り、おびただしい量のビラをまいて競った。この3作品、宣伝効果もあってそれぞれ興行的には成功を収めた。

マキノプロ赤字続きで苦戦
「忠臣蔵」は、不況に強いといわれる映画である。牧野省三は、松竹や日活などの大手に押されて、窮乏の一途をたどるマキノプロの財政の立て直しをはかろうと、生涯をけた大作「忠魂義列・実録忠臣蔵」の製作を断行する。1928(昭和3)年、牧野省三ちょうど50歳であった。

しかし、「忠魂義列・実録忠臣蔵」(全17巻)の製作は最初から難航する。まず、主役の大石内蔵助を演ずる主演の伊井蓉峰との対立、紆余曲折して撮影に入ったが、主役の伊井蓉峰が牧野の演出通りに演技してくれず、予定が大幅に遅れてクランクアップする。
更に追い打ちをかけるように、全国封切り予定を5日遅れにした3月6日、まだ編集中のフィルムが裸電球に触れて火災となり、その大半のフィルムを消失ししまう。一説には、映画の不出来に絶望した牧野が、自殺を図ろうとしたのではと言われている。
それでもなんとか繋ぎ合わせて「浅草富士館」などで上映し、それなりの興行成績を上げた。しかし、この事件がマキノプロの俳優に動揺を起こす。翌、4月には片岡千恵蔵、嵐寛寿郎などのスターを筆頭に、50数人の俳優が一度に大量脱退する事件につながった。
この時以来、牧野省三は病床に倒れ、代わって彼の長男の正博(後に雅弘と改名)が、シナリオライターの山上伊太郎と組んで演出することになった。マキノ正博この時、弱冠20歳、山上伊太郎も23歳であった。
