1912(大正元)年〜1925(大正14)年

客寄せの呼び込み、ジンタの演奏
当時、活動写真の初日には町廻りというのがあって、楽隊を先頭にノボリや横幕をかつぐ者、チラシをまく者などが町中を練り歩いた。更に夕暮になると、開場前の館前で、客寄せの呼び込みや、ジンタの演奏などが有り、活動写真ファンの気持ちを騒がせたものだ。
このころはまだロードショーという興行形式はほとんどなく、1週間からせいぜい10日でフィルムを全部入れ替えたから忙しい。
映画のよしあしは弁士次第である。常設館では、それぞれに専属の弁士を抱えていた。札幌遊楽館も大正初年ころには、常設館になっていた。
専属の弁士10人を抱えていた
元・九島興行社長、九島勝太郎は、そのころのことを、「うちの遊楽館だけでも常時10人くらい弁士がいましたね、かなりの金額になりましたよ」と回想している。祖母のハツさんは、文楽三味線で人間国宝だった野沢喜左衛門に、義太夫を教えたことも有るほどの人で、弁士の選択には相当うるさかったらしい。
「その後、1915(大正4)年に中央館(南三条西二丁目)を建て、1926(昭和元)年には三友館(狸小路五丁目)を建てたので、3館で30人以上も弁士がいまして大変でした。洋物の説明者を東京から呼んだりすると、月給300円くらい払っていました。100円くらいのが多かったですね。なにしろ大学出の初任給が4〜50円くらいの時代でしたから大変な金額ですよ。弁士といっても、色々な職業の人がいましたね。新派上がりの人が多かったですが、少し毛色の変わったところでは、宣教師、お坊さんなんてのもいました。
“キリスト伝”とか“日蓮”などの宗教的な映画なんかでは、客席から紙に包んだ、おさい銭が飛んだりしたものでしたよ。」と語る。とにかく、当時の一流弁士は、相撲取りや役者と同じくらい花柳界ではもてたようだ。
活弁士の名調子いろいろ
1913(大正2)年、北海道の常設館は、まず函館に錦輝館、オデオン座、博品館などがあり、小樽は公園館、神田館。札幌には神田館、エンゼル館、遊楽館。旭川には神田館があった。それぞれの劇場では、華やかなジンタの音を街角に流し、マント姿の若者をわくわくさせていた。
当時はまだ、平日の昼間の興行は無かった時代である。平日の興行が始まるのは夕方の5時過ぎからで、上映時間は今とちがって長く、終映は夜中の11時ぐらいになった。そんな時間でも、狸小路の商店はまだ営業していて、活動写真館がハネた後にもう一稼ぎしていた。当時の活動写真館のプログラムを見てみよう。
活動写真の上映に先立って、まず主任弁士が舞台に登場し、観客に向かって、うやうやしく来場のあいさつをする。それから活動写真の始まりだ。
まず、最初に15分から20分くらいの「実写物」を上映。これはもっぱら、新米弁士の仕事。慣れぬ舞台にすっかり上がってしまい、シドロモドロになることもしばしば。観客から「マジメにやれ!」とヤジを飛ばされ、思わず絶句してしまう若い弁士もいた。

チャップリンとロイド、キートン
次は短編喜劇の出番。1915(大正4)年位から、チャップリン物が盛んに入るようになる。このほか、ロイド、キートンなどが多かった。喜劇の場合、弁士はもっぱら関西弁で語った。ついでにいうと、下男下女は東北の田舎言葉を用いたのである。これは関東以北に共通した現象だった。
それから新派劇、旧劇、時代劇、一番人気の洋物と続く。この間にそれぞれ休憩時間があり、仲売りが「おセンにキャラメル、ラムネにサイダー」と畳敷きのマスを渡り歩いた。
冬になると火鉢が用意され、劇場の中はスルメの焼ける匂いが充満し、活動写真の終わった後は、ミカンの皮や落花生の殼が散乱していた。お客は下手な弁士をヤジったり、飲んだり食べたりという時代だった。
活動写巡業隊・各地に劇場開設
「遊楽館が常設館になったのは、隣の狸小路四丁目に神田館という常設館ができたからです。それまでは、活動写真の地方巡業隊が回って来た時くらいしか、活動写真はやらなかった。やはり神田館の札幌進出が、刺激になったでしょうねぇ。」と九島さん。遊楽館ばかりではなかった。大黒座も札幌座も同じように刺激され、やがて常設館への道をたどる。
狸小路の三丁目と四丁目という、つい目と鼻の先の距離に軒を並べて、遊楽館と神田館は張り合った。「対抗意識は、かなりのものでしたよ、呼び込みの楽隊なんかが演奏する時は、四丁目の神田館の方に向かって音を出しましてね、もちろん神田館の前にいる客をこっちに呼び込もうって訳です」。
大正時代、常設館になったころの遊楽館は、沢村四郎五郎とか、市川莚十郎という俳優のいた天活(天然色活動写真株式会社)系の活動写真をよく上映している。
これは、ライバルの神田館が「目玉の松ちゃん」で人気のあった尾上松之助とか、女形の立花貞二郎(後の衣笠貞之助監督)作品を専門にしていたため、対抗上そうなった。
こうして、それぞれの活動写真館が独自のカラーを出そうと、系統的に活動写真を選んでいたが、一番困るのは、青函連絡船が嵐などで欠航になり、フィルムが届かなくなることだった。「こういう時の用意に、東京の小プロダクションのつくったフィルムを買って置いた。テントを張って夜景シーンを撮影しているんですが、風でめくれて太陽の光がぱっと射したり、とか面白い物もあった。」と九島さん。活動写真製作創世期のころは、いろいろな粗悪作品もあったようだ。
