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日本映画100年史

本【日本映画100年史】をリアルタイムで加筆していく、ライブブックブログ!

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無声映画・活動弁士の時代

2019.05.30 by 西川昭幸

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1912(大正元)年〜1925(大正14)年

なんとも暗い時代

明治時代の混迷した時代から脱皮しょうと「大正デモクラシー」と呼ばれる自由主義・民主主義的な風潮が広がって行く。しかし反面、1914(大正3年1月、海軍高官の収賄問題(シーメンス事件)が起こるなど、軍部の力が益々巨大化していた。

政府は日露戦争勝利の勢いに乗って、8月、日英同盟を理由にしてドイツに宣戦布告し第1次世界大戦に参戦。なんとも暗い時代に入って行く。

そうした世相を横目で見ながら社会は、生活文化の近代化を進めていた。1912(大正元)年、新橋〜下関間に特急列車が運転開始。1914(大正3)年、東京駅が竣工。

1921(大正10)年、メートル法の使用開始。1925(大正14)年、ラジオ放送開始(東京放送)。翌年1926(大正15)年には断髪が流行し、社会が少しずつ変わろうとしていた。

そうした時の1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生。死者9万1,300人、全焼家屋38万1,000戸の大惨事が起こる。これにより社会や経済が激変する。明治維新の藩閥政治に関わりを持った江戸時代生まれの人々が、政界から引退、又は他界していった時代でもあった。

映画も新しい時代へと動き出す

映画界も各社の東京撮影所が震災に遭い、製作体制も変わっていく。大正初期は、活動弁士がこの世を謳歌し、絶大の人気者になる。大正後期になると、、ファンも新しい映画を求め成長していく。

活動写真という野暮ったさや、子供っぽさから、やっと青年に成長してみると、日本映画は泥臭く、外国映画ばかりが持てはやされ、「通」ぶるファンが増えていく。

そのため活動写真でも映画でもない、シネマとかキネマとか言う言葉が流行った。劇場名もエンジエル、キネマ、シネマ等が増え、もうこの時代になると若者が映画の主要層で、客層も替わっていく。モガ、モボの時代である。

明治45年 皇居前
明治45年 皇居前

大正元年「日活」誕生!

日本中に常設館が増え続けるにつれ、活動写真の製作も急激に進んでいた。その動きを追ってみると、1908(明治41)年1月20日、吉澤商店が東京目黒坂にグラス・ステージの撮影所を建設。同年9月、牧野省三監督で「本能寺合戦」を製作した。

1909(明治42)年、エム・パティー商会が東京大久保百人町に撮影所を建設。同年10月、尾上松之助が横田商会の活動写真に初出演。1910(明治43)年7月、横田商会が京都に撮影所を建設。1911(明治44)年12月、日本興業株式会社が設立された。

そして、1912(大正元)年3月、国家当局の要請を受けた横田商会の横田永之助が、資本金1千万円を元に、横田商会、吉澤商店、福宝堂、エム・パティー商会の国産活動写真4社が合併して「日本活動フィルム株式会社」を創立した。

面白いのは株式市場では、この会社のことを「活フイ」と略して呼んだことである。このため、これから発展しようとする会社がフイになっては遺憾と縁起をかつぐ者があって、社名をその年の9月に「日本活動写真株式会社」と改め、略称を「日活」と呼ぶようになった。

日本映画産業の草分け

これが日活の創世である。「日活」が本格的な映画会社として、日本一古い会社といっても良いだろう。何故なら製作・配給・興行を一貫して実施。外国の活動写真まで配給して、日本映画産業の草分けとなった。

しかし、日活は創立早々からいばらの道を歩んだ。それは日活の宿命といえる寄り合い世帯の派閥的相剋の悲劇で、会社運営に大きなブレーキとなった。

まず払込金250万円(資本金1千万円)で4社の買収費170万円、流動資金80万円にしたのに対し、買収価格が277万6,700円と高くなり、期待した株式の引き受け大手がつぎつぎ破約、そのため初代社長・後藤猛太郎が辞任。企業合同責任者・梅谷庄吉も引責辞任。1年後には重役が総辞職するなど内紛がたえなかった。

浅草日活映画劇場
最も古い高級映画館「富士館」が「浅草日活映画劇場」に改称

くわえて打ち続く不況のため、内憂外患こもごも尽きぬまま、つい1914(大正3)年、第1次世界大戦による不況で、経営がどん底を衝き、せっかく大同団結した日活も解散かと騒がれた。

しかし、横田永之助を常務に迎えた事で生き返る。横田が懸命の経営努力で再建させたのだ。「日活」創立の功労者は、横田永之助である。関東の3社を相手にそれだけの力を持てたのは、英雄豪傑や忍者の活躍する活動写真を製作し、成功していたからである。

それは時代劇の舞台を豊富に持つ京都に、撮影所の拠点を置いたこと、松之助の人気と牧野省三という逸材を得た事が大きい。以後、日活は時代劇の名門会社として、目玉の松ちゃんこと、尾上松之助を看板スターに押し上げ発展する。

日活創立記念作品「忠臣蔵」

日活の創業当初は大変だった。営業は大苦戦していた。当面の興行映画は吉澤商店、横田商会、福宝堂、エム・パティー商会、4社の作品を上映したが、新会社「日活」としての製作は無く、早急に作らねばならなかった。4社から引き継いだ撮影所は、吉澤商店の目黒撮影所と横田商会の京都法華堂撮影所だった。

しかし、東京の目黒撮影所は強力な指導者が居ないので、沈滞していて機能停止状態になっていた、そのため他社へ脱出して行く者も多かった。そうした中で、日活創立記念映画・第1回作品として発表したのは、横田商会が抱える、牧野省三監督、尾上松之助主演の「忠臣蔵」だった。

これが1912(大正元)年11月15日から浅草富士館で封切りされた。「全長、5巻5千尺、製作費1万円」というのが宣伝文句であったが、事実は、過去に撮影した「忠臣蔵義士伝」の幾つかを編集し、新たに茶屋場2巻を、撮影して1本にまとめたものである。

牧野、松之助コンビは、別に「乃木大将一代記」を製作。それを同じ日の1912(大正元)年11月15日から千代田館で公開した。これは1912(大正元)年9月13日の明治天皇御大葬当日、殉死した乃木大将の伝記を撮影したものだった。こうして日活の船出が始まった。

Filed Under: 大正 Tagged With: 尾上松之助, 日活, 牧野省三

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著者紹介(西川昭幸)

アバター1941年北海道生まれ。東洋大学社会学部卒。
映画会社勤務などを経て現在、公益社団法人理事。
<主な著作>
「北の映画物語」(北海タイムス社)、
「美空ひばり公式完全データブック 永久保存版」(角川書店)、
「活字の映画館 明治・大正・昭和編」(ダーツ出版)、
「日本映画100年史」(ごま書房新社)、
「美空ひばり最後の真実」(さくら舎)、
「昭和の映画ベスト10、男優・女優・作品」(ごま書房新社)

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