1896(明治29)年〜1911(明治44)

活動写真・爆発的人気に
小樽の興行が盛況のうちに終わり、いよいよ札幌にもやってきた。当時の大黒座といえば、小樽の末広座と同じく、歌舞伎をやれる一流の劇場だった。この当時、札幌には大黒座と新築したばかりの共楽館が歌舞伎を公演する劇場で、金沢亭、松美亭、丸市亭、剛亭が寄席小屋で合わせて6軒あった

当時の人々には、上は歌舞伎から義太夫、娘義太夫、壮士芝居、講談、うかれ節、落語、文楽、狂言などに人気があって、さらに浪花節の人気が高まっていた時である。
年に一度しか興行が来ないような、新発明で未知数な存在だった活動写真が、お盆興行として一流どころの大黒座で興行したことは、活動写真がいかに物凄い人気であったかを、如実に語るものといえる。しかし北海道は年に一度の興行だった。
1898(明治31)年の記録をみると、活動写真の人気がいかに凄かったかがよく分かる。「小樽末広座活動写真 同座入口には、各国国旗等を三方四方に挙げ、大に景気を添え、初日は非常の大入りにて、5時頃に至りては、満員見物人押し詰まり、7時頃に至るや見物人は続々踵を接し、客止めを為す程にて、土間桟敷とも充満し、実に立錐の余地なき近来の盛況にして、2千余人の大入りなりしが、客止めの為、空しく帰りし者不少(すくなからず)、写真活動の模様はもっとも妙なり、映写の間には写画の説明を与え、又楽隊を秦するなど、見物は退屈なく、尚、数日は好人気なるべし。」と小樽新聞の記事がある。
当時で2千人の人が、入場を待って2時間も行列していたというのだからスゴイ。それでもやって来る客は引きも切らず、結局、満員御礼の札止めをするという程の盛況ぶりだった。この時、解説をした男が、「日本活動写真大王。る非常大博士」と自ら誇称して歩いた興行師で弁士の駒田好洋だ。北海道の人口が、まだ78万6,111人の時である。
和製活動写真登場!
活動写真は、日本に入って来た直後はすごい人気だったが、1〜2年でフィルムのストックが無くなり、観客の方も、二度、三度と似たようなフィルムを見せられると、喜ばなくなってしまう。そこで興行者は自前で製作を考えるが、勝手が違って出来なかった。
日本で初めて活動写真の製作が試みられたのは、1897(明治30)年で、シネマトグラフを輸入した稲畑勝太郎だった。しかし何度も失敗。その後、神戸の富豪・光村利藻も挑戦するが、これも失敗。
それを興行用として成功させたのは、三越写真部の柴田常吉だった。製作した「芸者の手踊り」などの短編数種を、1899(明治32)年6月、東京歌舞伎座で公開した。
連日大入り満員
初めての試みだったので、ひろめ屋(チンドン屋)の元祖・秋田柳吉の「日本率先活動写真会」(経営者・駒田好洋)に依頼し、派手な宣伝で客を集めた。これが大好評で連日大入り満員。活動写真の興行価値を再認識させた。これが日本最初の活動写真、興行用第1号である。
この成功を期に、輸入の活動写真ばかりに頼っていた企業家は製作へと手を伸ばしていく。しかし、当初の活動写真は製作の技術を教える1人の指導者もいなければ、1冊の手引書もなかった。

そのため、完成した物は撮影技術も残像の原理を無視してキメの荒い画調となり、しかも現像の粗悪さと、内容の稚拙さが相まって、文字どおり活動写真以前のしろものだった。
こうした活動写真技術の拙劣さに革命をもたらしたのは、アメリカから呼んだ撮影技術や演出、現像などを指導する知識人の導入だった。
その後、写真の質も少しずつ良くなり、日本製の活動写真がどんどん撮られるようになるのだが、中でも面白いのが「稲妻強盗」の撮影であった。
稲妻強盗というのは、当時、関東地方を荒らし回っていた凶盗 坂本慶二郎のことで、この悪漢が埼玉県幸町で逮捕されたのは、1899(明治32)年2月のこと。これを活動写真化したのだ。
といっても、後に日活俳優となる横山運平が、頼まれるまま面白半分にやった物だった。彼が刑事役、片桐という男が巡査役、若槻というのが悪漢にふんして撮影された。
伊東某の庭を借り、庭木の陰に隠れていた悪漢を、2人の警察官が発見して格闘となり、逮捕するという一場もの。そんな他愛のないものだったが、これが巡業の先々で、大人気だったというから、分からないものである。
相撲の実写フィルムに拍手喝采

北海道で日本製の活動写真が観られたのは、北海道拓殖銀行が開設した、1900(明治33)年11月だった。その中で、観客を喜ばせたのは、相撲の実写フィルムだった。
このフィルム、実は1年半前に作られたものだったが、東京の大相撲など、北海道に居ては、いくら見たくとも、見られなかったので人気を呼んだ。前年に撮影した、相当カビ臭いフィルムだったが、観客は多いに喜んで拍手喝采が止まなかったという。
「北清事変」の記録物が人気に
1902(明治35)年の活動写真興行で特筆すべきものは、なんといってもニュース映画である。この年、4月末に北海道に上陸したが、実はこれ、1900(明治33)年に起こった「北清事変」と、1798(明治31)年のアメリカとキューバの「米西戦争」のニュース映画と、いずれも古かった。

しかし、東京の大相撲のフィルムでさえ1年半もかかったのだから、「米西戦争」が四年、中国での「北清事件」物が2年掛って到着しても、仕方ないと言えた。
「北清事変」の戦記フィルムを製作したのは、河浦謙一の「吉澤商会」で、柴田常吉、深谷駒吉の2人の従軍カメラマンが撮影した。「北清列国連合軍戦争の景」「大砲沽台落城の壮観」「北京落城各国総攻撃の景」などの実写フィルムであった。
だが、戦争実写フィルムといっても、当時の技術は現在に比べると、随分と幼稚なもので、戦闘の様子がそれとなく分かる程度。それでも、実戦の有様を座っていて観られるとあって大変な人気だった。観客は、ただただ舌を巻き、今更ながら活動写真の素晴らしさを知った。