
1896(明治29)年〜1911(明治44)
横田永之助・活動写真巡業隊
1897(明治30)年、日本に活動写真が上陸してからの数年間、興行は、専ら巡業隊によるものであった。その数ある地方巡業隊の中でも、駒田好洋と並んで、横田永之助の巡業隊が知られている。
やがては日本映画界の大立者となる横田だが、駒田の巡業隊と比べると、同じ巡業隊でもずいぶん違いがみられる。たとえば万事、派手派手しかった駒田巡業隊は、行く先々で歓迎され華やかだったが、これに対し横田巡業隊の方は、地道で実質本位な経営方針だった。
横田永之助は、1872(明治5)年、の旧臣の家の三男として生まれている。
しかし家柄は良いものの、あまりおとなしい少年ではなかったようだ。父親はその将来を憂い、13歳の時上京させ、杉浦重剛の稲好塾や札幌農学校に学ばせた。
18歳で単身アメリカに渡る
海外雄飛の時代である。やがて横田は、18歳で単身アメリカに渡った。
4年後の1889(明治22)年、彼は日本に帰っていた。そして土産に持ち帰ったX線光線を、見世物として興行していた。
まもなく彼は兄の紹介で、シネマトグラフをフランスから持って来た稲畑勝太郎に会う。このことが、彼が活動写真と一生かかわり合うきっかけとなる。
しかし、興行界の因習を嫌った彼は、一時興行界から遠ざかる。1900(明治33)年のパリ博覧会で京都府出品委員会のメンバーとしてフランスに渡り、この国の活動写真が、めざましく発展しているのを知る。
そこで彼は、フランス・パティー社と直接購入契約を結び、新しいフィルムを、どんどん日本に輸入する。横田巡業隊は、最初の半年ぐらいは、ひどい苦労の連続だった。映写技師と説明者が揃わず、彼自身が二役を兼務し、後に彼の夫人となる女性が出札を受け持つ。
そんな生活がおよそ半年続いた。人気の無い土地に行くと、やくざにゆすられたりした。興行は地元やくざとのアツレキは日常茶飯事で、興行界特有の悪しき体質がこの頃から続いていた。
横田巡業隊・全国展開へ

旅から旅へと地方巡業を重ねた横田永之助にとって、初めの4,5年がもっとも苦しい時代だった。この時期、彼は何かにつけて節約をし、倹約家ぶりを発揮している。
例えば、機械類の損耗を恐れた彼は、映写機の取り扱いに随分気を使った。
当時は手回しの映写機である。ハンドルがひどく重いのも理由の1つであったが、フィルムの巻き取り枠を上下につけていては歯車が早く摩耗すると考え、下の巻き取り枠をはずして、フィルムを流しっぱなしに泳がせた。
フィルムの巻き戻しも、映写技師が彼1人しかいなかったので、映写している最中に、空いている左手と足を使って行った。

巡業先の劇場では、飾りちょうちんを沢山吊るすが、短くなったロウソクを丹念につないで次に使った。また、使い古して機械に掛らなくなったフィルムは、2コマとか3コマに切って映写前や休憩時間に客席に持って行き、1銭、2銭で子供たちに売りさばいたという。
横田永之助の地道な努力
かなりケチくさい話だが、横田がそうして財を蓄えたことで、一介の興行師として終わらず、映画製作会社を経営するまでにのし上がっていく。
もし、横田商会が無かったら、日本の映画界は別な道をたどったかもしれない。
なぜなら、日本映画の父と仰がれる牧野省三は、横田永之助にスカウトされたからである。また、牧野省三の登場がなかったら多分、「目玉の松ちゃん」こと、尾上松之助という、大ちゃんばらスターも存在しなかっただろう。
苦労を積んだ横田商会だったが、パティー社から日露戦争の実写フィルムが入るようになって、にわかに活気づいてきた。彼は巡業班を11班に分けて全国を巡回させた。そして彼自身は、ろっ骨の飾りのついた軍服を着て、説明者をやった。
駒田と横田巡業隊・各地で衝突!
横田永之助は地方巡業を始めたころから、活動写真を企業として、経営が成り立つよう考えていた。浮草のように儚い旅回りの巡回興行ではなく、常設興行を夢見たのは当然のことといえた。
また別な理由として、巡業が活発になるにつれ、旅先で駒田巡業隊とよく衝突するようになったことが挙げられる。
実際、横田巡業隊と駒田巡業隊は、巡業先で頻繁に衝突していた。時には露骨に角突き合ったが、面白がったのはその町のスズメたちだった。しかし、巡業隊の方は双方共に負けてはいられないから、せっせと競い合った。
宣伝にかけては、何かにつけては派手な駒田に軍配が上がる。横田も負けじと、団体客の勧誘では巧みなところをみせた。説明や楽隊にかけては駒田が手を揃えていたが、映画そのものは横田の方が常に新しかった。
そんな風に、2つの巡業隊が競い合うのを、町の人達はそれを眺めて面白がっていた。
明治30年・動く写真に仰天!

北海道に、まずシネマトグラフがやって来た。1897(明治30)年7月に函館。次いで小樽だった。小樽では、1897(明治30)年8月4日から興行。翌日の小樽新聞は、次のように書いている。
「末広座において一昨夜より興行の活動幻画は、縦5分、横7分ほどの小写真を、丈余方へ映写するものにて、或は桟橋より波間に飛び込み、泳ぎ戯るさま、或は自転車を旋転し、或は躍り、或いは走り、歩兵騎兵の進行等その現物を見るにひとしく、只人馬の物言ひ声を、発せざるを恨みとするのみ、実に玄妙不可思議喝采の外なし」。
この時上映されたフィルムは非常に短く、1本はせいぜい5分くらいの時間で、これを、数多く上映した。小さなフィルムが、大きなスクリーンに写し出される。しかも従来の幻燈とは違って、動く画面なのである。音の出ない物ではあったが、当時の人々は非常に驚いた。
加太こうじ著「下町の民俗学」(PHP研究所刊)の一節に次のような、くだりがあって、やはり当時の様子の一端を伺い知ることができる。
写真が動くのだから、活動写真だ
「父のひとつ話に、1897(明治30)年頃に、東京・赤坂の寄席で、渡来して間もない映画を見た時のことであった。父はそのとき5歳だったが、動く写真というのが大きな驚きだったらしく、いつまでも、よくおぼえていたのである。
岩に波が打ちよせる風景が映ったら、父の横にいた男が、とっさに前の客席の座布団をとって、前へかざして波をよけようとしたそうである。動く写真は、当時の日本人に、それほど本当らしく見えたのだろう。」(以下略)
このとき見たのがフランスのリュミエール兄弟が発明した、シネマトグラフである。
スクリーンは一間四方の白布で、周囲は赤い幕で囲っていた。上映前に「口上言い」が説明し、観客の後方では楽隊が演奏を繰り返していた。
当時は、動く写真のことを現在のように映画とは呼ばなかった。主に活動写真、略して活動、などと呼んでいた。活動写真の名称は,諸説あるが、ジャーナリストで劇作家の福地源一郎が「写真が動くのだから、活動写真だ」と命名したのが、そもそもだといわれる。
映画という呼称は、ずっと後の昭和初期頃から使われた始め、通常語になったのは1935(昭和10)年頃からである。
