• Skip to primary navigation
  • Skip to main content
  • Skip to primary sidebar
  • Skip to footer

日本映画100年史

本【日本映画100年史】をリアルタイムで加筆していく、ライブブックブログ!

  • 令和
  • 平成
  • 昭和(後期)
  • 昭和(中期)
  • 昭和(初期)
  • 大正
  • 明治
  • アニメ
  • よもやま話

日本映画産業の巻頭を飾る

2019.05.30 by 西川昭幸

1896(明治29)年〜1911(明治44)

日本に活動写真上陸

動く写真が日本に初めて上陸したのは、1896(明治29)年11月だった。活動写真が新しい商売になると着目し輸入した。高額の映写機4台を別々のルートで、ほとんど同時に輸入している。

まず、最初に京都モスリン会社の重役、稲畑勝太郎が「シネマトグラフ」を購入した。機械を電気で動かすという最初の試みなので、フランスから連れてきた技師と、京都・四条河原町の電燈会社の庭にスクリーンを張って、苦心惨憺の末、1週間の試験で、ようやく映写に成功する。

上映作品はフランスから輸入した、「汽車の発着・進行風景」「パリ市街」「美人の踊り」など、短い実写映画ばかりであったが、新京極の「東向座」で有料公開した。ときに、1897(明治30)年2月22日であった。

これがバカ当たり。連日大入り満員で、人、人の波で、向かいの八百屋が壊される騒ぎまで起きた。日本に活動写真が登場した最初である。次いで同年3月、大阪道頓堀の「角座」で公開。こちらも観客が押し寄せ、向かいの商店を破壊するという物見高さだった。

この興行主の稲畑勝太郎。その後、国染織界の大立者(後に貴族院議員)として知られた人で、当時はまだ若い駆け出し時代だった。

映画興行の始祖 横田永之助

シネマトグラフを輸入したものの、畑違いの商売だったので、これを知人の横田万寿之助に譲る。これが縁で映画興行の始祖といわれた横田永之助(後に日活社長)が登場する。

東京では、柴田忠次郎が稲畑勝太郎とは違う「ヴァイタスコープ」で上映した。

柴田の購入した映写機は、16本のフィルム付きで、3,500円という大金だった。当時米1升が6〜7銭なので、いかに高額かがわかる。さすがの柴田も即金で払う余裕も無く、前渡し2,000円で取引したと言う。

神田錦輝館
神田錦輝館

この柴田忠次郎の「ヴァイタスコープ」は1897(明治30)年3月6日から東京・神田錦輝館で公開した。当初の予定は、昼夜2回公演で5日間だった。

高額入場料でも想定外の大当たり

オーディオ/AV機器の販売【フジヤエービック】

特別1円、1等50銭、2等30銭、3等20銭と、当時としてはかなり高い入場料を取った。ところが人、人で想定外の大当たりとなり、結局17日間のロングランとなった。

この2人と同じく映写機を購入した、大阪の西洋雑貨商・荒木和一は、イタリアの「シネマトグラフ」を大阪新町の演舞場で公開した。しかしこの機械、重くて使い勝手が悪いので、後に樋口虎澄に譲ってしまった。

東京の美術貿易商、吉澤商会・河浦謙一は、興行で前記の柴田忠次郎に先を越されたので、対抗手段として破格の低料金、8銭均一で3月7日、東京・神田三崎町の「川上座」で公開した。

我が国最初の興行争

この柴田と河浦の戦いが我が国最初の興行争いといえようか。この時の河野の興行も、また受けた。前記した4台の映写機はその後、横田永之助と駒田好洋(映画説明の元祖)の手に移って全国各地の巡回興行に使用される。

日本最古の映画ポスター
日本最古の映画ポスター

この時代、電気の普及が悪く、地方では、まだランプが中心の生活だった。そのため明治期から大正初期にかけての巡回映写興行は、酸素ガスが唯一の映写光源で、映写効果は相当に悪かった。映像も判別出来ないことも有った。それでも物めずらしさから結構客も来たし、儲かった。

1897(明治30)年という年は、日本映画産業の巻頭を飾る年となった。当時の活動写真興行は、旅から旅への巡回映写以外に方法が無かった。横田と駒田はこうした悪条件と戦いながら、全国に映画を普及していった。

駒田光好洋・活動写真巡業隊

「頻(すこぶる)非常大博士」こと駒田好洋は、1885(明治18)年に大阪に生まれている。家業は洋品屋だったが、上京して広告店の店員となった。

ヴァイタスコープを初めて興行した、柴田忠次郎の「新居商店」は、駒田のいた広告屋に、宣伝と劇場の飾りつけを頼んだ。これが、駒田と活動を結びつけるきっかけとなる。

駒田好洋 巡業隊ポスター
駒田好洋 巡業隊ポスター

やがて新居商会は、この広告屋に映写機を譲った。以後、駒田は巡回興行隊を組織し、専らその業務にたずさわることになる。

頻(すこぶる)非常大博士

もともと駒田は、「口上言い」が得意だった。上映を前に、映写機の構造や活動写真の説明に、長々しい弁舌を振るった。その説明の文句に「頻非常」という言葉を頻繁に用い、これがそのまま駒田のニックネームになってしまった。

駒田はまた「自称エジソン、日本活動写真大王、頻(すこぶる)非常大博士」などと大書したビラを興行先で張った。マンガ的発想の肩書だが、名乗る方も相当な神経であり、観衆の方もあまりの誇大さにあきれ、案外その毒気に当てられた気持ちで集まって来たのかも知れない。

駒田は何にでも「頻」という文字を使った。

羽織の紋章や引幕には、「頗」という文字をマークのように図案化して用いたりしたという。何かにつけて大袈裟な駒田好洋だが、彼の功績として残るものは、「口上言い」のパターンである。彼の前任者の口上は、演説口調だった。駒田はこれを、いわゆる弁士口調に変えた。

「口上言い」が、活動写真弁士という名に変わり、さらに短縮されて活弁というようになるが、それ以後の弁士パターンは、すべて彼の踏襲である。いわゆる「活弁調」とは、駒田によって創造されたといっても過言ではない。

駒田好洋の巡業隊は、活弁調の口上と派手な宣伝が受け、日本全国、行く先々で歓迎された。

Filed Under: 明治 Tagged With: シネマトグラフ, 日活, 活動写真

Primary Sidebar

著者紹介(西川昭幸)

1941年北海道生まれ。東洋大学社会学部卒。
映画会社勤務などを経て現在、公益社団法人理事。
<主な著作>
「北の映画物語」(北海タイムス社)、
「美空ひばり公式完全データブック 永久保存版」(角川書店)、
「活字の映画館 明治・大正・昭和編」(ダーツ出版)、
「日本映画100年史」(ごま書房新社)、
「美空ひばり最後の真実」(さくら舎)、
「昭和の映画ベスト10、男優・女優・作品」(ごま書房新社)

四方山話

「大林宣彦監督」の画像

「映像の魔術師」大林宣彦監督死去

2020.04.16 By 西川昭幸

「理想の母」を演じた名女優・八千草薫

2020.04.04 By 西川昭幸

98歳「日本一のおばあちゃん役者」他界 2010(平成22)年

2020.04.03 By 西川昭幸

他の四方山話記事を読む

アニメ

自分の感情をストレートに出すだけが人間ではない

2020.04.01 By 西川昭幸

日本映画に対するオマージュではなく、生きようとしている人に対するオマージュ

2020.03.24 By 西川昭幸

この胸が詰まっている感じに名前を付けてください

2020.02.24 By 西川昭幸

他のアニメ記事を見る

タグ一覧

スタジオジブリ (5) トーキー映画 (5) マキノ雅弘 (5) 三船敏郎 (14) 中村錦之助 (4) 今井正 (8) 勝新太郎 (5) 原節子 (5) 吉永小百合 (5) 大映 (9) 大河内傅次郎 (4) 宮崎駿 (6) 小津安二郎 (5) 尾上松之助 (8) 山本嘉次郎 (3) 山田洋次 (8) 市川崑 (6) 市川雷蔵 (4) 新東宝 (5) 日活 (19) 木下恵介 (7) 東宝 (66) 東映 (48) 松竹 (43) 栗島すみ子 (3) 梅宮辰夫 (3) 森谷司郎 (6) 森道夫 (6) 森雅之 (3) 活動写真 (15) 深作欣二 (5) 渥美清 (6) 片岡千恵蔵 (4) 牧野省三 (5) 石原裕次郎 (7) 稲垣浩 (5) 美空ひばり (8) 衣笠貞之助 (4) 角川映画 (4) 角川春樹 (5) 阪東妻三郎 (10) 降旗康男 (4) 高倉健 (12) 高峰秀子 (6) 黒澤明 (21)

Footer

新刊紹介

最近の投稿

  • 平成14年の日本映画年間ベスト10、No.1,2,3 2020.06.18
  • 平成13年の日本映画年間ベスト10、No.7,8,9,10 2020.06.18
  • 平成13年の日本映画年間ベスト10、No.4,5,6 2020.06.01
  • 「蜜蜂と遠雷」(配給/東宝) 2020.05.23

検索

Copyright © 2022 · 日本映画100年史