1896(明治29)年〜1911(明治44)

日本に活動写真上陸
動く写真が日本に初めて上陸したのは、1896(明治29)年11月だった。活動写真が新しい商売になると着目し輸入した。高額の映写機4台を別々のルートで、ほとんど同時に輸入している。
まず、最初に京都モスリン会社の重役、稲畑勝太郎が「シネマトグラフ」を購入した。機械を電気で動かすという最初の試みなので、フランスから連れてきた技師と、京都・四条河原町の電燈会社の庭にスクリーンを張って、苦心惨憺の末、1週間の試験で、ようやく映写に成功する。
上映作品はフランスから輸入した、「汽車の発着・進行風景」「パリ市街」「美人の踊り」など、短い実写映画ばかりであったが、新京極の「東向座」で有料公開した。ときに、1897(明治30)年2月22日であった。
これがバカ当たり。連日大入り満員で、人、人の波で、向かいの八百屋が壊される騒ぎまで起きた。日本に活動写真が登場した最初である。次いで同年3月、大阪道頓堀の「角座」で公開。こちらも観客が押し寄せ、向かいの商店を破壊するという物見高さだった。
この興行主の稲畑勝太郎。その後、国染織界の大立者(後に貴族院議員)として知られた人で、当時はまだ若い駆け出し時代だった。
映画興行の始祖 横田永之助
シネマトグラフを輸入したものの、畑違いの商売だったので、これを知人の横田万寿之助に譲る。これが縁で映画興行の始祖といわれた横田永之助(後に日活社長)が登場する。
東京では、柴田忠次郎が稲畑勝太郎とは違う「ヴァイタスコープ」で上映した。
柴田の購入した映写機は、16本のフィルム付きで、3,500円という大金だった。当時米1升が6〜7銭なので、いかに高額かがわかる。さすがの柴田も即金で払う余裕も無く、前渡し2,000円で取引したと言う。

この柴田忠次郎の「ヴァイタスコープ」は1897(明治30)年3月6日から東京・神田錦輝館で公開した。当初の予定は、昼夜2回公演で5日間だった。
高額入場料でも想定外の大当たり
オーディオ/AV機器の販売【フジヤエービック】
特別1円、1等50銭、2等30銭、3等20銭と、当時としてはかなり高い入場料を取った。ところが人、人で想定外の大当たりとなり、結局17日間のロングランとなった。
この2人と同じく映写機を購入した、大阪の西洋雑貨商・荒木和一は、イタリアの「シネマトグラフ」を大阪新町の演舞場で公開した。しかしこの機械、重くて使い勝手が悪いので、後に樋口虎澄に譲ってしまった。
東京の美術貿易商、吉澤商会・河浦謙一は、興行で前記の柴田忠次郎に先を越されたので、対抗手段として破格の低料金、8銭均一で3月7日、東京・神田三崎町の「川上座」で公開した。
我が国最初の興行争
この柴田と河浦の戦いが我が国最初の興行争いといえようか。この時の河野の興行も、また受けた。前記した4台の映写機はその後、横田永之助と駒田好洋(映画説明の元祖)の手に移って全国各地の巡回興行に使用される。

この時代、電気の普及が悪く、地方では、まだランプが中心の生活だった。そのため明治期から大正初期にかけての巡回映写興行は、酸素ガスが唯一の映写光源で、映写効果は相当に悪かった。映像も判別出来ないことも有った。それでも物めずらしさから結構客も来たし、儲かった。
1897(明治30)年という年は、日本映画産業の巻頭を飾る年となった。当時の活動写真興行は、旅から旅への巡回映写以外に方法が無かった。横田と駒田はこうした悪条件と戦いながら、全国に映画を普及していった。
駒田光好洋・活動写真巡業隊

「頻(すこぶる)非常大博士」こと駒田好洋は、1885(明治18)年に大阪に生まれている。家業は洋品屋だったが、上京して広告店の店員となった。
ヴァイタスコープを初めて興行した、柴田忠次郎の「新居商店」は、駒田のいた広告屋に、宣伝と劇場の飾りつけを頼んだ。これが、駒田と活動を結びつけるきっかけとなる。

やがて新居商会は、この広告屋に映写機を譲った。以後、駒田は巡回興行隊を組織し、専らその業務にたずさわることになる。
頻(すこぶる)非常大博士
もともと駒田は、「口上言い」が得意だった。上映を前に、映写機の構造や活動写真の説明に、長々しい弁舌を振るった。その説明の文句に「頻非常」という言葉を頻繁に用い、これがそのまま駒田のニックネームになってしまった。
駒田はまた「自称エジソン、日本活動写真大王、頻(すこぶる)非常大博士」などと大書したビラを興行先で張った。マンガ的発想の肩書だが、名乗る方も相当な神経であり、観衆の方もあまりの誇大さにあきれ、案外その毒気に当てられた気持ちで集まって来たのかも知れない。
駒田は何にでも「頻」という文字を使った。
羽織の紋章や引幕には、「頗」という文字をマークのように図案化して用いたりしたという。何かにつけて大袈裟な駒田好洋だが、彼の功績として残るものは、「口上言い」のパターンである。彼の前任者の口上は、演説口調だった。駒田はこれを、いわゆる弁士口調に変えた。
「口上言い」が、活動写真弁士という名に変わり、さらに短縮されて活弁というようになるが、それ以後の弁士パターンは、すべて彼の踏襲である。いわゆる「活弁調」とは、駒田によって創造されたといっても過言ではない。
駒田好洋の巡業隊は、活弁調の口上と派手な宣伝が受け、日本全国、行く先々で歓迎された。
